2011年9月12日月曜日

それぞれの孤独

今年、初モノの栗がとれました。
朝晩がちょっと涼しくなってきたなぁ、と思うと、いつの間にか栗のなる季節になってる。毎年、あっという間に。

今年も、ぴかぴかの栗です。まだちょっと、小さいけど。







そしてもちろん、栗ごはんをつくりました。



じつは失敗したのさ。
張り切ってごま塩を先に作ってて、あやうくごま塩が主食になるところだったわ。
炊飯器が炊き上がりの合図をしたからウキウキと蓋をあけると、温水に浸かったまんまのナマ米とナマ栗…。
慌てて蒸し器で蒸しあげて、どうにかこうにか食べられるところまでもってきました。はぁ。
ハイテク電気製品は信用できん…。



ところで、ちょっと前ですが、女子の古本市で買った本、「須賀敦子を読む」を、読みました。
よい本だった。
読み始めたら、あっという間に読み切ってしまった。



とても、愛のある本です。
須賀敦子の書いたもの、そこに至る思想に対して、深く寄りそい、理解したいと思う、愛がある。
やさしい。




彼女の文章を好きだという人は、「読むと心が落ち着くから」というふうにその理由を挙げる人が多いらしい。
たしかに、彼女の書くとてもきれいな日本語と、五感の全てで味わえるような文章は、読んでいてすっぽり包まれるようで、安心してその世界に身を任せられるというか、心が落ち着くのも理解できる。

でも私は、その後ろにある厳しさとか、哀しさとか、つきまとう向こう側の暗さ、みたいな、なんかそういった方により引き寄せられるようで、なんだか心の奥のほうがざわざわするような、ちょっと不安になるような、泣きたいような気分になるのです。
決して、それは不快な感情ではないのですが。




その理由が、分かったような気がします。

作者は、須賀敦子の、過去の思い出をまるで今そこで起こっている出来事のように描く、小説のようなエッセイの形態を、

    失われた時間を書き続けることで、もういちどその時間を「生き直す」

ための、作業だった、といいます。
以下、須賀敦子の文章からの抜粋。


コルシア・ディ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともすると自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。
そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだっと思う。
それぞれの心の中にある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。
その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣りあわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
若い日に思い描いたコルシア・ディ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。




徐々に失っていった時間と人を、書くことで、もういちど生き直す。
そこには、まるで今もそこに存在しているかのような、生き生きとしたかつての友人たちが描かれる。
そうすることで、それぞれの人の、それぞれの孤独を改めて理解する。
それに適したことばを獲得するまで何十年も、だから彼女は書くことをしなかったし、できなかった。

この、深い思い出を共有した人たちとの、すごく近くにいるという感覚とでももう二度と戻らない喪失の感覚と、そのふたつを行ったり来たりしながらも、ぶれない、書くことへの意志に貫かれた文章を読むことで、自分も、何か失ったものを生き直しているような感覚にとらわれるのだろうか、と。
だからすこし、やっぱりさみしくなるんだろうか、と思った。



「私は、孤独が荒野でないことを知った」
ということばは、河出文庫が全集を出したときに、それぞれの刊の帯に一言ずつ、キャッチコピーのように載せていたものの一つです。
はじめ、あまりに詩的なので、ウンベルト・サバの詩集のなかの言葉かとずっと思っていて、今回この評論を読んではじめて、須賀敦子の言葉だと気付いた。
ふかい。

帯の言葉はほかに、
「生きることほど、人生の疲れを癒してくれるものはない」
「くぐり抜けることが必要だった あのたましいの闇」
とか。
編集した担当の人のセンスの良さをかんじる。


ちなみに私がいちばん好きな須賀敦子の本は、「コルシア書店の仲間たち」。


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